概要
主体と代謝的社会学について
「主体と代謝的社会学」は、主体を軸にした社会学はどのようなものだろうか、という問いから生まれました。〈主体〉は日本の近代史を語る上で重要な概念であり、またその歴史をつくってきた多くの人たちの主体的な実践を通して、概念としても実践としても絶えず変容してきました。
〈主体〉は英語で〈subject〉や〈subjectivity〉などと訳されることが多い概念ですが、英語のそれが社会構造における定位(ポジション)を必要とするーーつまり、階級やジェンダー、人種、言語文化などの社会属性ありきの人間を前提としているーーのに対し、〈主体〉は身体を伴う活動と、活動がもたらす歴史的変化に焦点を当てています。〈subject〉 概念が社会的属性(階級・ジェンダー・人種など)を出発点とするのに対し、〈主体〉は社会属性に先立つ活動の次元から人間を捉えます。この差異は、社会変化をどこに帰属させるか——構造的位置に帰するか、活動の歴史的蓄積に帰するか——という方法論的な問いに直結しています。
このサイトでは、〈subject〉 概念に親しんだ英語圏の読者に向けて、時枝誠記(1900–1967)の言語過程説——〈主体〉・〈素材〉・〈場面〉の三項から言語活動を記述する理論——を経由しながら〈主体〉を紹介します。時枝はフェルディナン・ド・ソシュールの構造的言語学を批判し、言語を活動として位置付けている点で独特な観点を提示しています。ソシュールの構造的言語学は、個人の発話(パロール)とそれを支える言語体系(ラング)という二重構造を前提とします。これに対し時枝は、言語をパロール/ラングの二項に還元せず、発話する〈主体〉が〈素材〉を場の状況〈場面〉において活動的に運用するプロセスとして記述します。〈主体〉が活動を通してしか理解されえないとすれば、社会学もまた、主体的活動の総体として社会がいかに生成・変容するかを問う学問として再構成される必要があります。それが代謝的社会学の出発点です。
代謝的社会学が「代謝的」なのは、社会・生態学的な生を維持しているのが主体的活動にほかならないからです。マルクスが「代謝的亀裂」として批判した——資本主義経済が環境と社会の相互的な物質交換を断ち切る構造的傾向——に対しても、〈主体〉の活動はその断絶に介入し、代謝的な連続性を再編する契機となります。「代謝」という語は、1960年代に丹下健三らが率いたメタボリズム建築運動も参照しています。それは都市・建築を固定した構造としてではなく、更新・再生し続ける有機的プロセスとして捉えた試みでした。代謝的社会学もまた同じ直観——社会とは均衡状態に向かうシステムではなく、〈主体〉の活動によって絶えず自己を更新する過程である、という直観を共有しています。